お正信偈に「摂取心光常照護」「我亦在彼摂取中」「大悲無倦常照我」など繰り返し示されますように、浄土真宗では、ほとけ様に護られて日々を送り、人生を終えた後には阿弥陀如来さまの御もとの極楽浄土に生まれ往き、阿弥陀如来様と同体のお悟りを頂いて、後の人々を導く悟りの仏の仲間入りを果たすという、往還の回向を蒙ることが説かれておりまして、故人の追善供養のためではなく「応報大悲弘誓恩」と示されますように、報恩謝德、つまり日々のお陰様に感謝すること、またその御教えに遇うことがご法事の主たる目的です。
それならば、自分でほとけ様に感謝したり仏法を学んだりしておきさえすれば、ご法事などしなくても罰当たりにならないはずだ、などとおっしゃる方もあるかもしれません。状況が状況であればそれも構わないところであるかも知れません。但し究極、人間界は人間として他者との関わりを断ち切っては生きて行くことが難しい世界であります。
時に「お墓が綺麗なお家は栄える」ということを聞きます。鶏が先か卵が先かというような話になりますが、生活に十分な余裕があってもお墓まで常に気を付けられるか否かはその人の性格や価値観などに大きく関わることです。お墓を大切にしたら億万長者になれたという話もあまり聞いたことがありません。
要は、感謝の思いを正直に伝えられる人は、社会の中で信頼され助けあいの精神の中で過ごすすべを自然に身に付けられているということであり、それは一朝一夕に出来上がるものでは無く、親から子へ、親類や夫婦間、地域や学校や職場などを通し、幼少期から徐々に培われて行く大切な心の成長の結果としてもたらされる繁栄が代々に亘って保たれているということを意味するのではないかと思います。
事情によってご法事を遅らせたり休止しなければならない時には、ほとけ様は事情を直ちに察してご理解下さいますが、肝心なのは社会性、つまり、人間界の仲間であるご家族ご親族、そしてお寺にもご相談を下さり、事情を正しく察して貰うことで関係性を保つ、感謝の意を忘れないということをなさって頂ければ宜しいのではないかと考えます。小さな頃からほとけ様に親しむ、周囲の人との関係を深める、社会的儀礼に参画する、このことによって感謝の思いを正直に伝えられる人間に成長する上で、これ迄も、これからも、お仏事が果たす役割は大きな意味を持ち続けていくのではないかと思います。
事情によって家族葬や直葬を選ぶ場合も増えてきておりますが、家族に迷惑をかけないためにというような謳い文句が、果たして本当かどうか、社会性を学ぶ機会を家族から奪ってしまい、それが連鎖した先々の子々孫々達がどの様な人生を送ることに繋がるのであろうかなど、慎重に見極め判断をして頂きたい重要な選択事項であるという側面にも目を向けておいて頂けたらと思います。