阿弥陀如来の本願は かならず救うまかせよと
南無阿弥陀仏のみ名となり たえず私によびかけます
「 一月は行く、二月は逃げる、三月は去る 」
と申しますが、年度末の三か月は瞬く間に過ぎ新年度を迎えました。「それ、春も去り秋も去りて、年月を送ること、昨日もすぎ今日もすぐ。いつの間にかは年老のつもるらんともおぼえずしらざりき」と、御文章(四帖目第四通)にもあるように、私たちの一生も、嬉しい楽しい・辛い悲しい・暑い寒いと言っている間に、アッ?と過ぎて行きます。何を拠り所にどこに向かって生きているのか。
十数年前、門徒Hさん(当時八十五歳)との出来事です。「ご院家さん、今日は娘の五十回忌法要よろしくお願いします。まさか八十五歳まで命をいただき、娘の五十回忌を勤めるなど思いもよりませんでした。娘を亡くした頃は他のお子さんの成長を見るたびに、生きていれば今頃は入学卒業・成人式と辛く悲しい涙の日々を送っていました。そのような私に義母が《あの子は阿弥陀さまのお心の中に生かされている。いつもあなたと一緒に居る。》と優しい言葉をかけてくれました。それ以来、娘は仏さまとなって私から離れることなくいつも一緒に居てくれているのだと、お念仏申す日々を暮らして来ました。」とお話し下さいました。娘さんを亡くされた事実は一生消えることはありません。その苦しみ悲しみを抱えたまま五十年を生きてこられたのは、お浄土に支えられ、お念仏に導かれたからではないでしょうか。そして「ご院家さん、その娘にもう少しで遇えます。」と、お念仏申しながら笑顔で続けられました。私も「南無阿弥陀仏・ナモアミダブツ」とお念仏を申させていただきました。
愛しい人ともいずれ別れなければならない。勉強や仕事など思い通りにならない。何事も「ならない」づくしの苦の人生。泣きたいときには泣きましょう。それを受け止めてくれるのが仏さまであり、支えてくれるのがお浄土です。入学、就職と節目の月を迎えました。お念仏申す人生を共に歩みましょう。
寂静寺 住職 佐々木 龍明