那珂組コラム

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今月の法話 令和6年12月[ 妙楽寺 原田宗明 ]

我が元仁元年

親鸞聖人は、その主著である『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の中に、いくつかの年号を記して遺されてあります。

1つには『教行信証』第六巻目「浄土方便化身土文類」の末(後半)に、

興福寺の学僧たちは、後鳥羽上皇・土御門天皇の時代、承元元年二月上旬、朝廷に専修念仏の禁止を訴えたのである。天皇も臣下のものも、法に背き道理に外れ、怒りと怨みの心をいだいた。そこで浄土真実の一宗を興された祖師源空上人をはじめ、その門下の数人について、罪の内容を問うことなく、不当にも死罪に処し、あるいは僧侶の身分を奪って俗名を与え、遠く離れた土地に流罪に処した。
わたしもその一人である。だから、もはや僧侶でもなく俗人でもない。このようなわけで、禿の字をもって自らの姓としたのである。源空上人とその門弟たちは、遠く離れたさまざまな土地へ流罪となって五年の歳月を経た。
順徳天皇の時代、建暦元年十一月十七日、朝廷から許されて、源空上人は都にお戻りになり、それ以降は京都東山の西の麓、鳥部野の北のあたり、大谷の地にお住いになった。そして同二年一月二十五日、正午にお亡くなりになったのである。その時、不思議で尊い出来事が数多くあった。そのことは源空上人の別の伝記に記されている。
ところでこの愚禿釈の親鸞は、建仁元年に自力の行を捨てて本願に帰依し、元久二年、源空上人のお許しをいただいて『選択集』を書き写した。同年四月十四日には、「選択本願念仏集」という内題の文字と、「南無阿弥陀仏 浄土往生の正しい行は、この念仏にほかならない」というご文、並びに「釈綽空」というわたしの名を、源空上人が自ら書いてくださった。また同じ日に、源空上人の絵像をお借りしてそれを写させていただいた。同じ元久二年の閏七月二十九日、その写した絵像に銘として、「南無阿弥陀仏」の六字の名号と、「本願には、〈わたしが仏になったとき、あらゆる世界の衆生がわたしの名号を称え、わずか十回ほどの念仏しかできないものまでもみな浄土に往生するであろう。もしそうでなければ、わたしは仏になるまい〉と誓われている。その阿弥陀仏は今現に仏となっておられるから、重ねて誓われたその本願はむなしいものではなく、衆生が念仏すれば、必ず浄土に往生できると知るべきである」と述べられている『往生礼讃』の真実の文を、源空上人が自ら書いてくださった。また、わたしは、夢のお告げをいただいて、綽空という名をあらためて善信とし、同じ日に、源空上人は自らその名を書いてくださった。この年、源空上人は七十三歳であった。
(現代語訳版)

承元元年 二月 上旬 (1207年 3月 上旬)承元の法難により越後流罪(宗祖35歳・数え年)

建暦元年十一月 十七日(1211年12月23日)承元の法難による流罪を赦免される(宗祖39歳)
建暦二年 一月二十五日(1212年 2月29日)法然上人がご往生なされる(法然上人80歳)

建仁元年       (1201年、宗祖29歳)法然上人のもとへ
元久二年       (1205年、宗祖33歳、法然上人73歳)
元久二年 四月 十八日( 同  年 5月 8日)選択本願念仏集の下附
元久二年閏七月二十九日( 同  年 9月14日)御絵像の下附

という年月日の記載があります。またもう1つには、同じく『教行信証』第六巻目の本(前半)に、

正法・像法・末法の三つの時代が説かれた教えについて考えると、釈尊の入滅された年代は、周の第五代穆王の五十三年にあたっている。その年からわが国の元仁元年に至るまで二千百七十三年を経ている。
また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃経』などの説によると、すでに末法の時代に入ってから六百七十三年を経ているのである。
(現代語訳版)

元仁元年       (1224年、宗祖52歳)

という記載が見られます。元仁元年とは、1224年12月31日から1225年2月8日までの間を指しますが、この期間中に私たちの御本典『顕浄土真実教行証文類』が成立したと、上記の末法年時計算に記された「我が元仁元年」という記載から推定されているところであるのです。この1224年は法然上人がご往生されてから12年が経ち、十三回忌が同じ年の2月末から3月初めに営まれていたことでしょう。法然上人を慕われて執筆されたのが御本典であり、この『教行信証』にこめられた称名念仏弘通の願いこそが、宗祖の報恩謝徳の思いではないかと受け止めさせていただくところです。もちろん、このような大著を僅か十ヶ月で書き上げることができるのか否かという問題があり、およそ4年ほどの期間を要されたのではないかという学説があります。これを5年前に遡れば、法然上人の七回忌が1218年(健保6年)にお勤まりになったはずです。健保2年(1214年)に小島の草庵(茨城県下妻市小島)、建保4年(1216年)に大山の草庵(茨城県城里市)を経て、その後は笠間郡稲田郷の領主である稲田頼重に招かれて同所の吹雪谷という地に稲田の草庵(茨城県笠間市)を結んで滞在されたようであり、法然聖人の七回忌も関東で過ごされたと考えられています。御本典『顕浄土真実教行証文類』の内容を簡易に記したような『浄土文類聚鈔』(本典に対して略典と呼ばれます)も同時期に成立しており、御本典が成立する前後にこの略典も成立していたとされますことから、私は、七回忌の御縁に際して師徳にご報謝される思いで略典の執筆をなされた上で、十三回忌の御恩報謝に本典『教行信証』へと深化させて著しなおされたのではないかと考えております。そうすれば、およそ十ヶ月の短い期間でも、宗祖の御才覚から考えて不可能ではないように思えるところであります。その後に御本典ではなく略典の書写本が多く伝わって行きましたが、当時は紙が貴重品であったことや書写の手間暇を考えて、略典の方が通常は用いられていたということで良いのではないかと考えます。法然上人の十七回忌(安貞2年1228年、宗祖56歳)を控えた嘉禄3年(1227年)に起きた法難を契機に、天福2年(1234年、宗祖62歳)には鎌倉幕府の宣旨により関東の道場が閉鎖されたためでありましょうか、法然上人の二十三回忌にもあたっていたこの年の頃、親鸞聖人は京都へとお戻りになりました。越後への流罪と法然聖人との直接のお別れは、後鳥羽上皇・土御門天皇の時代でありましたが、後鳥羽上皇は承久3年(1221年)には既に隠岐島へご流罪(崩御は延応元年1239年)となられてあり、土御門天皇は寛喜3年(1231年)に崩御なされた後の京都の地へと、複雑な思いはあられながらも、ようやくお帰りになることができられたのではないかと推察をいたします。

さて、この時期には多くのお寺様で報恩講の御法要がお勤まりになられたことと思いますが、覚如上人が著された『御伝鈔』には、あまり詳しく記されていないような実際の歴史的な背景をご紹介いたしました。親鸞聖人の決して華やかではないご生涯に重ね合わせてご法義をいただきましたならば、そのご苦労の多さに私たちの苦労もまた重なるところが多いと感じられ、いよいよ本願念仏のありがたさ尊さをお伝えくださった親鸞聖人の御心に親しみをもって触れさせていただくような思いがいたします。平時忠が語ったとされる「平家にあらずんば人にあらず」という時代に、数えの9歳で家を追われて出家をなされてから以降、比叡山での苦悩が晴れたと思われた法然上人との御縁もまた、承元の法難で生き別れになられることになり、親しくされてあった関東の皆さんとも鎌倉幕府の宣旨による道場の閉鎖に伴ってお別れになってしまわれる。結局は比叡山に残られたご兄弟の房舎をたよられて京都の地へとお戻りになり、京都で得られる仏典を紐解かれてはご和讃の撰述や関東との文通によるご教化に励まれた日々の中にも、ご長男の善鸞を義絶されるという、本当にご苦労の多いご生涯でありました。

ご苦労が多い中でも、本願念仏の御教えを歓ばれ、ご恩報謝の思いで執筆をしてくださった『顕浄土真実教行証文類』の成立「我が元仁元年」から八〇〇年、来たる大晦日(12月31日)から涅槃会(2月8日)迄の40日間ですが、この寒い時期に心身の冷えを感じながらも、宗祖のご恩報謝の思いに心を重ねあわせつつ、合掌、お念仏を申す日々を共々に過ごさせていただけたらと思うことであります。ようこそようこそ報恩講へ、ようこそようこそ御本山の御正忌さまへ、ようこそようこそ関東の御旧跡へ、機会がございましたらどうぞお参り下さいませ。また、お家でのお称名もそのような思いの中で、法然上人親鸞聖人がお伝えくださいました正統のお念仏を深くよろこびつつ、皆様で声々に申させていただいてまいりましょう。

南無阿弥陀仏

妙楽寺 副住職 原田 宗明