那珂組コラム

那珂組コラム

白鵠会 定例会3月NEW!

白鵠会・定例会

日 時:2025年3月4日(火)15時~
会 所:光行寺
テーマ:『子ども(若者)・親子に向けた法話』
講 師:佐々木龍祐(寂静寺)

 

日曜学校などの子ども会行事で小学生を対象とした法話を想定しお寺と神社の違いを例に出しながら、私たちが皆「仏様から願われたいのち」であるということが伝わってくれればとお話させていただきました。

やや早口になってしまい言葉が聞き取りづらくなってしまう点や、子どもたちに分かり易くと言いながら難解な仏教用語をそのまま使ってしまっていた点をご指摘いただきました。聞いてくださる相手にもっと寄り添った話し方を学ぶべきだと反省いたしました。

また内容についても、学校など子どもたちを取り囲む環境の中での不安感や孤独感、心配事が「仏さまから願われた仲間」がいることで少しでも軽くなればと思いましたが、悩みや苦しみをなくさなければならないのではなく抱えたままでも大丈夫だと伝えていけることの重要性をご指摘いただきました

担当講師 佐々木龍祐(那珂川市 寂静寺副住職)

 

法話講評後は「時事耕論」の時間となりました。今回は担当会所からの発題を受けて「お通夜の際の法話」について意見を交わしました。

一言で「お通夜」と言ってもご往生なさって(亡くなって)いくお姿や、それまで歩まれた人生は人それぞれ全く違うものです。掛け替えのない存在である大切な方と改めて向かいあうこととなる「お通夜」は悲しみと寂しさに満ちた儀式となることが多いのではないでしょうか。そのような場で悲しみにくれる方にどのようにお声かけをさせていただけばよいか悩むということは、僧侶に限らずどなたでも経験されることでしょう。

無理をしてお話をしなくてもよいという意見にも頷くことができましたが、「僧侶は(儀式を勤めるものとして責任をもって)法話をしなければならない」という言葉を紹介いただいたときに、「法話とは阿弥陀様のお話であり、私が悲しみを癒すためのお話をしてあげるのではないのだろう」と気が付かされました。

悲しみにくれる人に、その悲しみに何もできない私に、その悲しみやもどかしさも否定されずに寄り添ってくださるはたらきが阿弥陀様の願いです。ひとりの人間として私にできるのは目の前で悲しんでいる方とご一緒に阿弥陀様の願いの中でその場をともにさせていただくことだけなのでしょう。

「何もしない」のではなく「何かをする必要がない」からこそ、そこに集った皆が悲しみや感謝をそのままに亡き方を偲んでいけるのが浄土真宗のお通夜なのだろうと改めて確認させていただいたことでした。

(郡島朋昭 春日市・光照寺)