「眼識(げんしき)とお聴聞」
いつも見ているはずなのに関心度が変わると、全く違って見えるという体験をしました。
秋の紅葉の時季にグループで旅行に出かけました。新幹線の車窓から見える風景に、対面に座る農家の青年は声を上げて喜びました。棚田に刈り取った稲を束ねて稲架(はさ)と呼ばれる横木に吊し、天日で干していました。諸説ありますが、彼は「機械乾燥のお米より、天日干しのお米がおいしい」と力説しました。そして「いい風景だ」と感慨深げに言いました。言われて気付きましたが、その前から同じ様な風景がありました。あまり興味を持たない者にとっては関心は薄く、見ているようで見ていなかった事に気付きました。自己中心的なものの見方、何に関心があるかで見える風景は変わります。
屈託のない子供の笑顔は周りの大人のこわばった顔を笑顔にさせてくれます。しかし、わが子をなくした母親は「仲のよさそうな親子連れを見ると無性に腹が立つ」と同時に、そういうことに腹を立てる自分自身に対しても「嫌気がさす」と悲痛な思いを話されました。立場が変われば見える風景は変わります。
この季節、テレビで放送されるお彼岸のイメージは、お墓参りのシーンが多いように感じられます。亡くなった故人がそこにおられると思って参拝するのではないでしょうか。
『浄土真宗 仏事のイロハ』(本願寺出版社)には、お彼岸の意味について「先祖の墓参りをする期間」ではなく、「さとりの世界へ到る道を問い聞く期間」とポイントを記しています。自己中心的なものの見方しかできない、迷いの衆生である私の姿を聞いていく期間でもあります。この時季は彼岸会の法座が勤まっている寺院があります。先祖供養の法要としてではなく、仏法に耳を傾け、自己の生き方を見つめ直す機会として参拝しましょう。立場が変われば、関心度も変わります。
合 掌
善教寺 住職 今泉 信生