那珂組コラム

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今月の法話 令和7年10月[ 専宗寺 佐野唯信 ]

「浄土真宗のご本尊」

仏様の姿ってどんな姿?と問われると、頭に浮かぶのは仏像の仏様ではないでしょうか。
そして仏像を見て「この仏像は○○仏だ」とすぐにわかる方は少ないのではと思います。
実は私もそうなんです。
《ちなみに右から4番目が阿弥陀如来です〈五智如来座像ー京都国立博物館〉》

お経には、数限りない仏様の存在が説かれていますが、
仏像は、お経に説かれた仏様方の共通したのお姿の特徴を元に
歴史的に伝承された形式で彫られているので、
同じような姿になるのは当然のことなんだそうです。

仏様は煩悩を捨て去っているため、装飾品を身につけません。
(例外的に装飾品を身につける如来像もあります)
そして「糞僧衣」といわれる粗末な衣服を身につけています。
これはお釈迦様の生前の姿にルーツがあるといわれています。
そして意外なことですが、現在のきらびやかな七条袈裟(お葬式や特別な法要の時に僧侶が身につける)は
この「糞僧衣」をルーツとしております。

そして、仏像の金色の姿にあらわされているように、粗末な服装で装飾品を身につけなくとも、
この上なく神々しく見えるのが仏様のお姿なのだ、ということなのです。

 

 

浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来です。(仏=如来です)
お仏壇等にご安置するご本尊には大きく3種類あって
・名号「南無阿弥陀仏」
・絵像(絵にかかれた仏像)
・木像(木に彫られた仏像)・・・その他金属の像など
とありますが、どれも阿弥陀如来の願いの姿をあらわしています。

お木像の話になります。
阿弥陀如来像は京都や奈良をはじめ、全国多数のの寺院や博物館にご安置されています。
その中でも、浄土真宗の阿弥陀如来像には特徴があります。

 

1つは、立ち姿、そして少し前のめりになっていることです。
これは苦悩を持つ人々のもとに、自分の方から寄り添っていくその姿をあらわしていると言われます。

2つは、印相(手の形)であらわされている如来の心です。
親指と人差し指で輪をつくり、右手を上に、左手を下にしています。
浄土真宗では特にこの印相のことを

「摂取不捨印(せっしゅふしゃいん)」

と言われています。

親鸞聖人は、「摂取不捨」について

「ひとたびとりて永く捨てぬなり」
「摂とはものの逃ぐるをおわへとるなり」

と注釈しておられます。

つまり、「逃げる者を追っかけて、捕まえたら二度と離さない」
聞きようによってはちょっと怖い感じをうけるかもしれません。
でももしかしたら、幼少の頃にこのようなな体験をしたことがあるかもしれませんよ。

公園などでよく見かける風景として、小さな子連れの親が遊んでいる姿があります。
親は子供を自由に遊ばせているようで、そうではありません。
もし子供が、公園内の危険な場所や、公園外の道路に出ようとしたらどうするでしょう。
そんなとき、親は急いで子供のところに駆け寄って捕まえて離さないのです。

子供が、危ないことがわからない幼い年頃ならば、もしかしたら離せと暴れるかもしれません。
それで離していたら子供が危険になるので、安全なところに連れて行くまでは暴れても離さないのが親の姿です。

仏様にとって私どもは、煩悩により苦悩を抱え自らを苦しめる
とても危うい存在に見えるのだそうです。
そのような私を放っておく事が出来ずに一瞬たりとも目を離さず、
それでも飽き足らずに、ついには私の所までいたりとどき抱きしめて離さない、
そしてついには如来自らと同じような仏と成す。
これが阿弥陀如来の「摂取不捨」の意なのです。

 

合 掌

専宗寺 住職 佐野 唯信