那珂組コラム

那珂組コラム

今月の法話 令和6年 3月[ 専光寺 藤井直道 ]

「時の流れ」を歩む

私が現在のお寺に入寺して15年以上が経ちました。その間、私の身近にも色々な変化がありました。この町で出会った人との今生の別れあり、この町の風景もゆっくりと少しずつその姿を変えてきたように思います。そして変化はまた、私自身の中にもありました。歳を重ねる中で、気づかなかったものに気づくようになる一方、反対に無くしてしまった想いも少なくないように思います。

専光寺 - 浄土真宗本願寺派 那珂組 さん

そんな事を考えると、わずか数年でそんな思いにひたるくらいですから、私よりもっと長い人生を送られた方にとって「時の流れ」とはどれほど大きいものなのでしょうか。皆さんはどうですか?ご自身が歩んでこられた歳月を静かにかみしめた時、移り変わっていくものの多さにふっとため息を漏らされることなどはないでしょうか。さて、日本の四季は移り変わりがはっきりしており、そういう意味では、季節感の大変豊かな国ですね。しかし、その「四季」というのはなにも自分を取り巻く外の風景だけでなく、私たちの人生にもまた「四季」というものがあるように思います。

この世に誕生して、色々なものを吸収し芽吹いていく思春期を春に例えると、夏は色々な夢や希望を追い求め、汗水流して働く壮年期です。秋は落ち着いた生活を静かにかみしめる老年期です。そして、人生の最後にいらないものを全部脱ぎ落して、澄みきった空を仰ぐ冬の枯れ木のようになって、人は今生のいのちを過ぎていくのでないでしょうか。

季節というものは、必ず次の季節をその中にはらんでいます。冬が終わって、突然春がくるのではなく、春という季節はちゃんと冬の中に準備されているのです。木枯らしの吹く空の下、私たちの目には見えなくても、地面の下では、草や虫たちの春を待つ命がちゃんと準備されています。それと同じように今生の命尽きる時を冬の季節とするなら、その中にもちゃんと新しい季節の芽がよういされています。それが私たちの命の中に満ち満ちた阿弥陀さまのおはたらきです。

私たちの今生の命が尽きたその時から開かれる新しい季節とは、私たちが阿弥陀さまの「お浄土」という仏さまの世界で迎える季節です。それは「仏」としてのはたらきを生きていく「永遠」という季節なのです。そして、その季節の芽生えは私たちの命の中で、阿弥陀さまのおはたらきとしてもう始まっているのです。

そのおはたらきが「南無阿弥陀仏」という阿弥陀さまの呼び声として、私たちの口からあふれ、心に響いてくださるのです。そのおいわれを悦びながら、お念仏の日暮らしを送らせていただきたいものです。

専光寺 住職 藤井 直道