とうとう「老い」が「オイっ!」と肩をたたいて
今年の5月30日、野球の試合中、捕手をつとめた私の右膝に異変が走りました。
帰宅後、膝はみるみる腫れあがり、翌日、整形外科にて、右膝半月板断裂との診断の結果でした。全治3か月。膝治療のため現在通院をしています。自分では、野球のプレイ中で突発的に起きたケガとばかり思っておりましたが、医師いわく、前々から徐々に悪くなってきた膝関節の悪化がそもそもの原因だとのことでした。要するに「あんたもう歳バイ!」ということなのです。
お経の中には、お釈迦様が「生老病死」と説かれておられます。「生」生まれたら、「老」齢をとり、「病」病気と向き合い、「死」必ず命終わっていかなくてはならない。という命あるものには必ず訪れる「因果の道理」です。
僧侶として何度もお聞かせいただいている教えではありますが「自分はまだまだ大丈夫だ」と高を括っている私に、お釈迦様のご指南の通り、「老い」が「オイっ!」と肩をたたいてきた瞬間でした。
思うようにならない日常生活を余儀なくされる中で、その身になってみないとわからなかった事がたくさんありました。片膝をかばうと、今度は何ともない方の膝にも負担がかかり痛くなる。階段は上りより下りのほうが膝が痛い。などなど。
それは、膝が何ともない時には、考えもしませんでしたが、ご年配の方々がよく口にされてあった「膝が痛いと階段がきつい。」と言われていたのが、わが身で実感してみると痛いほどよくわかりました。
親鸞聖人は『お正信偈』の中で、「邪見驕慢悪衆生」と語られておられます。
邪見・・仏教のみ教えに説かれている、己の実相(年月とともに変化してゆく自分の姿)を知らないこと。
驕慢・・思い上がりや傲慢なこと。
悪衆生・・邪見と驕慢で因果の道理をわきまえない人。
「邪見驕慢悪衆生」とは誰の事か? 実は私自身の事でありました。
「水をよく石をうがつ」
雨どいからこぼれ落ちる水滴が、くり返しくり返し水滴をうけると、あの堅い敷石に穴を開けている事実を「水をよく石をうがつ」といわれております。
頑固な私の心にも、仏法の水滴を何度もうけるうちに、いつしか尊いみ教えが染み込んでくださってあるのだと、お聞かせいただくとき、親鸞聖人のお言葉がジンワリと胸に届いてくるような気がいたします。
この度のご縁は、「身をもって経験して、初めて見えてくる世界があるのだよ。」「日頃の感謝を忘れずに過ごしてゆきなさい。」とのご教示であると私なりに有難く味わわせていただいております。
相も変わらず、「のど元過ぎれば、熱さ忘れる」という、お粗末な私であるのかもや知れません。56歳、人生の折り返しを、下り階段を丁寧におりるがごとく、これからの日々は、あわてず、ゆっくり、丁寧に、「老い」と上手に向き合いながら大切に過ごしてゆきたいと思うこの頃であります。
合 掌
浄福寺 住職 佐々木 成明