念仏申さるべし
新年を迎えるに当たって、いつもありがたく味わう言葉が二つあります。
本願寺第八代宗主蓮如上人の言行録にあたる『蓮如上人御一代記聞書』の第一条に、
「勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前(おんまえ)に参りたるに、蓮如上人、仰(おお)せられ候(そうろう)。道徳はいくつになるぞ、道徳、念仏申さるべし」
と示され、お念仏を申す有り難さ、そしてよろこびを述べられています。
もう一つの言葉は、私の伯父が新年によく味わっていた、博多の仙崖和上の言葉です。
「春は称名に入りて口忽(くちたちま)ちに聞く/声高し無量寿如来/言うなかれ楽土西方遠しと/一夜の東風(こち)千里の梅」
仙崖和上は禅僧ですが、お念仏も喜ばれた方でした。
菅原道真(すがわらのみちざね)公の詠んだ「東風吹かばにほいおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」の逸話にちなんで、お浄土は西方十万億仏土を過ぎた遠いところと聞くが、お念仏をいただいた者は、如来さまの本願力にまかせて一足飛びにお浄土へと生まれさせていただくのである。育てて下さった人の真心にこたえて「梅の花」でさえも千里も離れた京から飛んで来たではないか、お念仏を申す身とならせていただくとは、何とも幸せなことであろうか、と声高らかにお念仏を申されたことでした。
この二つの教示は、此の私に対する厳しいおたずねです。今ご縁をいただいて、本当に私はお念仏を申せているのでしょうか。
~ あるがまま 必ず救うと ~
阿弥陀如来のご本願は、私たちが煩悩やはからいを抱えて苦悩する身である私という立場を、よくよく知っておいて下さり、その上で「私にまかせよ必ず救う」と、南無阿弥陀仏の御名のすがたとなり、いつも私たちに呼びかけ続けて下さいます。
年の初めは皆、なんとなくくつろぎ安らいで、幾ぶん華やかな気分で過ごしているというのが多くの皆様のお立場でしょう。しかし一方では貧(ひん)病(びょう)争(そう)など様々なことを抱えて、正月といえど苦悶の内にすごしておられる方々がいらっしゃることも現実です。そのどちらもまた、あるがままの姿として阿弥陀如来のご本願に願われた姿として何の差別もない、いのちの姿であるのです。
新年を迎え、あらためてお念仏を勧められた方々の御言葉を味わい、一年一年を変わらず重ねて過ごすことが決して当たり前のことではない、けれども阿弥陀如来のご本願は決して変わるものではない、そのように、いま私たちは真実の御教えにであい、お念仏を申す身となって、大いなる安心の中に人生を歩んでいることを大切にさせていただきたい思いであります。
合掌
西光寺 住職 岡本 健