「叱られた恩を忘れずに墓参り」
先日、当寺の納骨堂にお参りしたいと、ある男性が来られました。「どなたの納骨壇にお参りですか?」とお訊きしましたら「Aさんです」お答えになりました。Aさんの納骨壇は当寺にありますので、ご案内して、しばらくしますと、その方は目に涙をにじませて出てこられました。
気になったので、ついお尋ねしましたら、「はい、実は私は亡くなられたAさんが会社におられた頃、私の上司で大変お世話になりました。私がまだ若くて何度か失敗した時も、他の先輩たちからよく怒られたのですが、Aさんはいつも怒らないで優しく指導して頂いたものです。定年で会社を辞められてから、お元気になさっておられるか気になっておりましたら、知人からAさんは亡くなられたと聞いて大変驚きました。いつかお会いしてお礼を言おうと思っていた所本当に残念です。せめてお墓を知りたいと探し回って、やっと今日お参りする事が出来ました。また時間が取れたら参らせて頂きます。本当にありがとうございました。」と言われ帰っていかれました。
昔の川柳の「叱られた恩を忘れずに墓参り」という句を思い出し、今日の出来事と重ねて考えてみました。この句の「叱る」とよく似た言葉に「怒る」という言葉がありますが、本来「叱る」は道理を説いて相手の過ちを納得させる事ですが、「怒る」は感情的な強い言葉で相手を責める事で、全く意味が違います。昔は「怒るときは叱るなよ、叱るときは怒るなよ」と教えられたものです。Aさんの指導が本当の「叱り方」を実践されていたと思われます。
恥ずかしながら私自身も今日まで沢山の人にられて参りました。その時は腹が立ったり、くやしかったりしたものですが、それらのおかげで今日こうして暮らせるのであると思いますと、「叱られた」恩は、今になると有難いご縁でありました。この漢字の《恩》はよく見ますと〈因〉と〈心〉との二字からなっており、即ち《恩》とは「因を知る心」という事で、どのような因と縁によっているのかを知り教えられる心を表すのが《恩》という漢字なのです。
いま思いますと、厳しかった先生ほど年を取るほど懐かしく思い出されます。今では「叱られた」という悲しく辛い縁が、もうご恩返しが出来なくなった後悔となり、叱られた意味がいま本当にわかり、親や師の墓に参らずにはおれなくなるのです。それは私達の自発的な考えというより、仏になられた親や恩師のお慈悲の心が私に届いて、墓参りというご縁を恵まれたとも言えましょう。
合 掌
光明寺 住職 伊藤 利生