那珂組コラム

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今月の法話 令和3年 6月[ 光蓮寺 簑原 智海 ]

米粒ひとつにも

私の住むお寺は那珂川の中山間地域にあり、まわりには豊かな自然と田んぼが広がります。先日から田んぼに水が張られ、代掻きも始まりました。この時期、夜中に仕事をしていると、窓の外からはカエルの鳴き声だけが聞こえてきます。次の週末には多くの田んぼで田植えになりそうです。

「米」という字は「八十八」と書きます。これはお米ができるまでに88もの作業や工程が必要だからと聞いたことがあります。また、昔から農家の方は「田んぼに稲の小言を聴きに行く」と、夏の日照りも大雨の中でも一日に何度も田んぼに足を運びながら、水は足りているか、病気が付いていないか、元気に育ってくれるようにと願いながら大切にお米を育てていくそうであります。

田植えが終わり、夏が過ぎ、秋になれば稲穂が実り、おいしいお米がいただける。そう思っていたことは当たり前のことではなかったと気付かされます。

先日、台所でご飯粒を踏みつけてしまいました。子供たちがよそう時に落としたのでしょう。子供たちを叱りながら、私も子供の頃によく食べこぼしたり茶碗に残したご飯粒を「もったいない」と叱られたことを思い出します。「たとえ米粒ひとつでも、このひと粒はたくさんのご苦労と願いの中で育った大切ないのち。粗末にせず感謝していただきなさい」と。

籾を植えても勝手にお米にはなりません。そこには農家のご苦労と願いがあります。太陽の光、水、風、さまざまなご縁があります。大雨が続くこともあります。台風で一夜にして倒れてしまうこともあります。それでもしっかりと育ってほしいという願いの中でお米となっていきます。

「お米を育てることは子育てくらい大変だ。どっちも思うようにはいかない」と笑いながら話されたご門徒さんがいましたが、米粒ひとつにもそれだけの願いとご縁があるならば、私たちはどれほど多くの願いと深いご縁の中でお育てをいただいてきたのだろうかと今あらためて気づかされます。

今朝、近くの田んぼで田植えが始まりました。和らかな風にゆれる植えられたばかりの稲を見ながら、おかげさまでと手の合わさる思いがいたします。

合掌

光蓮寺
簑原 智海