数年前のことですが、卒業シーズンで忘れられない人との出会いがありました。
彼女は生まれつき左手に障がいを持っていましたが、地元の全日制の高等学校で卒業式を迎えました。
「ハンディを乗り越えた」という理由から彼女に祝いを兼ねて面会しましたが、卒業の喜び以外の反応はありませんでした。
これについて彼女は『 私は生まれつき右手があり、練習して勉強や身の回りのことができるようになりました。両手ある人も最初からではなく、練習してできるようになりました。私と同じで、特別な目で見ないで欲しい』と、指摘されました。
続けて『 あなた両手のほかに、(みぞおち辺りを指して)ここにもう一つ手があったらどうします 』の質問を受けました。私は『 そんな所にあったら、じゃま 』と応えると、彼女も『 私も両手あったらじゃま、いらない 』の言葉にショックを受けました。
『 ハンディを持つ人は可哀想だ 』の見方の裏返しは『 自分は健常者で普通である 』という思いが見透かされていました。『 私はそんなに可哀想な人ですか 』の言葉が訴えていました。自分を中心に、上から目線で障がい者の方を見ていた私の姿に気付かされました。
吉田兼好さんの徒然草に『 友とするに悪き者、七つあり 』(第117段)とあり、その中に『 病なく、身強き人 』(病気知らずで身体が強い人)と記しています。例えば風邪(かぜ)を引いた時は苦しいが、健康の大切さを風邪という病気によって知らされます。しかし『 一度も病気をしたことがない 』と健康を誇る人は、病気で不安を抱える人の気持ちが気付きにくいのではないでしょうか。
お釈迦さまは『 人生は苦である 』として「生・老・病・死」の四苦を示されました。
老・病・死の現実に苦悩し「生きていることが、あたり前ではない」を体験した人と、いのちの大切さを共に語り合いたい。吉田兼好さんは「そんな人と友達になりたい」という思いが伝わります。
「当たり前」の対義語は「(有ることが難しい)ありがたし」と言われます。
いのちあることを「当たり前だ!」と生きていくのか。「当たり前ではなかった。いのちありがたし」と気付いて生きていくのか。大きく変わっていくのではないでしょうか。
仏教は自己中心的でいのちあることを当たり前と気付かない私の姿を写す鏡でもあります。鏡に映った私の愚かな姿に気づかされていくことから、人としての歩みが始まるのではないでしょうか。仏教(浄土真宗)のお話を聞いてみませんか。
なお、那珂組(29ヵ寺)のホームページには報恩講・永代経の法要の日程表が掲載されています。どなたでも参拝できます。参拝の時はコロナの影響により、急な日程の変更や中止の場合もあります。お参りの際は、各寺院へお問い合わせください。
合 掌
善教寺住職 今泉信生