那珂組コラム

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今月の法話 令和4年 11月[ 西光寺 岡本 健 ]

『正信偈』によせて

秋から冬にかけて、各寺院では報恩講が勤まります。本堂や各家庭で、正信偈がよくおつとめされます。
正信偈は、蓮如上人によって浄土真宗の勤行と定められて以来、今日の私たちまで、最も親しみ深いおつとめとして伝えられて来ました。

また法事の折などに、正信偈をおつとめしますとご参詣の方の中に「あぁ、帰命無量寿如来…ですな、父が毎朝おつとめしていました。これが終わるまで朝ご飯がいただけなくて…」と懐かしそうに話されます。

正信偈について詳しいことはわからなくても、お父さんの思い出とともに心に残る懐かしい響きであったと思われます。

 

正信偈は親鸞聖人が、私たちに何とか如来さまの本願のお働きを領解させ、信心、念仏の人となるよう願いを込めてあらわして下さったお聖教であります。よく正信偈は何が説かれているのですかと質問されます。その時は私は「正信偈は南無阿弥陀仏のお念仏のこころを説きあらわしておられるのです」とお答えすることにしています。

親鸞聖人は南無阿弥陀仏のお名号とは、如来さまの名前、単なる固有名詞とは異なるものであるといわれるのです。それは阿弥陀如来が法蔵菩薩の昔、この私を南無阿弥陀仏の一つで救わんと願われた本願が、その願いのままに成就されて、願いのままの救いの仏となられたことを、万人に向かって告げ知らしめておられる救いの名のりであると教えられるのです。

このように私たち一人ひとりを願って下さった如来さまは、私を願いたもうが故に、私に来たりて南無阿弥陀仏のお念仏となって活動して下さっているのです。ですから私の称えるお念仏は私が称えておりながら、実は私の声にまで成りきって働きたもう如来さまそのものであるとしらされるのです。

自分の人生でありながら、真剣に考えることさえしない私であるからこそ、そこに如来さまの本願がかけられたのでした。とすれば如来さまの方が、私のことを私自身よりも大事に働きかけて下さっていると言えましょう。私たちにとってこの如来さまこそ、まさに畢竟依(究極のよりどころ)を帰命せよといただかれるのです。

西光寺 岡本健