那珂組コラム

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今月の法話 令和8年 6月 [真教寺 井上浄英]NEW!

「幸せとは?」

幸せを求めて

私たちは、幸せを求めて生活しています。個々に幸せの感じ方に違いがありますが、共通して言えることは、幸せ=安心を求めているということでしょう。
安心を求めること、つまり、生きていく中で漠然と不安を抱えているからこそ、安心を求めているのです。例えば、仕事や財産、そして健康など、これらに不安がないようにと安心を求めて日々を精一杯に過ごしていることではないでしょうか。

不安の真っ只中

安心を求めることを、決して否定しているのではありません。
安心を求める姿を表すならば、握り締めて離さないようにする姿でありましょうか。しかし、その姿というのは、いつ手元から離れていくかわからない不安の姿といえるでしょう。つまり、どこまでも安心と不安が表裏一体なのです。
私たちは、不安の中に安心を求め、安心を感じているときでも、もっともっとと安心を求める続けいるのです。どちらの姿も、底知れない不安の中なのかも知れません。
握り締めていくような姿、それを仏教では執着(しゅうじゃく)といいます。これは、煩悩の根源であり、ものごとに固執してしまう状態を指します。つまり、不安の真っ只中なのです。

まことの安心(ご安心・ごあんじん)

そもそも、私が安心と思っているものは、どこまで確かなものでしょうか…。不確かなものに執着しつづけ、思い通りにならないと不安につぶされていく存在がこの私であることを、阿弥陀さまはお見通しでありました。
だからこそ、不安のこの身に「まことの安心(ご安心)」を届けようと、阿弥陀さまは、今ここに“南無阿弥陀仏”のお念仏となって、この身に満ち満ちて下さっているのです。その証拠が、この口から零れ出るお念仏なのです。
握り締めていく不確かな幸せや安心ではなく、ここに届いてある阿弥陀さまの大いなる「まことの安心(ご安心)」に包まれているのです。握り締めた手が、手が合わさる合掌の姿、お念仏申す姿へと…。

安心とは居場所があること

法話のご指導をいただいている先生から、「安心とは、居場所があることだよ」「阿弥陀さまは、不安でいっぱいのこの娑婆世界に、そのままのあなたで大丈夫だよと、“南無阿弥陀仏”のお念仏となって、まことの安心となる居場所を届けて下さってあるんだよ」と教えていただきました。
不確かな安心に右往左往し、居場所を簡単に失う不安のこの身に、“南無阿弥陀仏”とお念仏申す人生は、決して孤独ではない、今ここに『まことの安心としての居場所』をご用意して下さっていました。

あるお寺の掲示板に
「幸せだから感謝するのではない 感謝できることが幸せである」
とありました。

お念仏申す人生そのものが、幸せであると歓ばせていただきます。

那珂川市 真教寺 住職 井上浄英